Site Overlay

の、夜

 暗さの中にあって、その全体はゆるやかに進んでいた。
 進みながら揺れるシートに、しばらく身を任せていた。

 聞こえているのは、周期性を伴うロードノイズ、それと、回転数を上げ下げするエンジンの音。

 自分はタクシーに乗っているのだな、と思った。
 流れる街灯が、車窓の上から照らし込んでくる。

 しばらく、記憶の混乱の中にいた。
 周囲を見てなお、理解するためのひとつひとつに、時間がかかった。

 体を動かすと、自分のいた位置に、残像のような置かれ方で、お酒の匂いが残った。
(酔い潰れた私を、誰かがタクシーに押し込んだ? )
 そう思うタイミングを待っていたかのように、ミラー越しで運転手と視線が合った。

「あなた、またですか? 」と、運転を続ける運転手が前を向いたまま言った。
 彼の言葉を意味として受け取るのに、また少しの時間がかかった。
「また、というのは? 」そう返すと、運転手は逡巡するような間を置いてから、意を決したように「何度もお乗せしてるんですよ」と話した。

 何度も、の言葉に、自分の心が落ち着きをなくしていくのがわかった。
 白髪まじりで痩せ型で、福耳、黒縁の眼鏡の、彼を前に見たことがあったろうか。

「毎回忘れてしまわれるんでしょう。いいんです。薄々気づいていたんです」と彼は言った。
 彼の言葉で、混乱した記憶の部分が一層大きく揺れるのを感じた。

 運転手は、車を走らせながら、実はこれまでに何度か運んだことがあるのだ、という説明をし始めた。
「最初は告げられた通り自宅へ送り届けました。二度目は様子がおかしかったので保護してもらう目的で交番の前につけました。最近では、ひどく具合が悪そうでしたので夜間診療をやっている病院へ送り届けて、少し付き添いもしましてね」

 信号機が赤になってタクシーが停まると、運転手は片方の手のひらで髪の全体を丁寧に撫で付け、もう片方の手で帽子を被り直し、「いいんです、気づいていたというのは、何というか、そういう症状を患っておいでだという理解ですから」と言った。

 彼の言葉の意味が、うまく飲み込めなかった。
(自分には、自分のことがわからない、のかも、しれない、として、)まだ芯にお酒の残っている頭を窓ガラスへ付けて支えながら、何とか思考しようと努力し始めた。

 タクシーの窓から見える街灯の並びは、ちゃんと見覚えのあるもので、自宅近くまで来ていることがわかった。
 確かに自分の自宅で間違いないと思う。
 けれど、ちょっと待ってよ、誰が自宅の住所を彼に告げたんだろう。
 タクシーに押し込んでくれた同僚が住所を?

「あなた、今夜っていう日を何度もやり直したくて、何度も同じ晩を繰り返しているような、そういう頭の状態なのでしょう」と、運転手が言った。

 タクシーが停車した。
 自動でドアが開くと、目の前に自宅の門があった。
「詳しく話してください」と、自分は頼んだ。が、彼は静かな口調で私に降りるよう諭すだけで、質問には答えなかった。

 押し問答にさえならず、タクシーを降りた。
 選択肢もないようだった。

 路地に夜風があって、庭木の葉が擦れる音がしていた。
 タクシーのドアが自動で閉まり始めたが、全てが閉まるまでのわずかな時間に、運転手の声で、こんなことが聞こえた気がした。

「本当は、私のほうこそこの夜へ、何度も戻っているのかもしれません」

 道端に残された自分の周囲には途切れない風があって、どこかの家で風鈴が小さく鳴っていた。

 走り去っていくタクシーのテールランプは、町明かりの暗いほう、暗いほうへと向かって遠くなっていき、それは一度も曲がることなく、ただ、ふっと消えるように見えなくなった。