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夜に沈む町にピアノ

 ここより先が、やってこなければいいのに。

 三階の踊り場、手すりの前に立ち、
 サンダル履きの あの子が 路地を小走りに行く、
 後ろ姿を 見おろしながら、
 そう 思っていた。

 三階下の地上では、家々の 角ばった影が
 西日で引き延ばされて、
 なぜだろう、それはまるで、不揃いの 歯並び、
 巨大な口が ゆっくり
 閉じていくところにも 見えるのだ。

 今からこの町は、とてつもなく大きな魚に、
 呑み込まれるようにして、昼をなくす。
 ここを呑み込んで、巨大な魚は 深い夜の海へ 潜ってしまう。

 階下の路地では、白いソックス履きのような猫の横断と、
 サンダルで小走りに行くあの子の、やわらなスカートの揺れがある。
 それを 見おろしている高さは三階で、
 西日の当たる踊り場だ。

 伸びてゆく 建築物の不揃いな影。
 それはスローモーションで 口を閉じていく、
 巨大な魚の 無数の歯並び。
 三階よりも、少しだけ早く 呑み込まれて行く地上を、
 路地のあの子が、サンダルの音を響かせて 走っていく。
 閉じていく、
 巨大で 大がかりな 歯並びの間に、
 まだ、その姿が見えている。
 白いソックス履きのような猫は、道の横断をやめて、
 上品に足を揃えて座り、尻尾でくるむ。

 呑み込まれて行く町の、ほんの少しだけ高い場所から、
 あの子が みえなくなるのを見ている。

 間もなく、巨大で、不揃いな歯並びが、
 ぴったりと 寸分の隙もなく 噛み合わさって、
 それからすべては、音の遠い、深いところへ 潜っていくんだ。

 見上げると、まぶしい上顎のほうから
 滴り落ちるしずくのように、ピアノの音が降ってくる。
 ここよりも高層の窓から、
 音符が、ぽろぽろとこぼれ出て、通路から 階段の手すり、
 この三階へも 落ちてくる。
 先に呑み込まれつつある階下へ、しずくのようにぽろぽろと、
 ピアノの音が 光の中を、こぼれて、跳ねて、落ちてくる。

 ぼくはまだ三階 手すりの前にいて、
 サンダル履きの あの子が行った、
 路地を 見おろし、立ったままでいた。