Site Overlay

後ろ向きの本

積もった雪がたっぷり雨を含んで、それを避ける道はなかった。
冷たく濡れた靴が、歩くたびに嫌な音を鳴らし、ようやく辿り着いた自動改札機は閉じていて、閑散とした駅構内では「列車の遅れをご案内します」というアナウンスが、機械的に続いているだけだった。
駅前では、傘を差した人々が列を作っていたが、バスもタクシーも、全く入って来ないようすだ。

いろいろと諦めて道を渡り、友人がやっている古書店で、時間をつぶすことにした。
狭い売り場の奥で、石油ストーブの火が揺れていた。
無造作に平置きされた本の一冊が、昔居酒屋で殴り合いになった作家の本だったので、心底嫌な気分になって、友人の店主に嫌味を言った。
「こいつの本なんか置いて、客が離れていったろうが」
すると友人は、歯の隙間から空気を漏らすような笑い方をし、ストーブにかけたやかんの湯で茶を入れ始めた。

彼が背にしている棚は、彼が絶対に売らないと決めている本の棚で、全ての背表紙が見えないよう、反対向きにしまわれている。
天井まで、みっちりと、題の見えない本で埋め尽くされているのだ。

店主に出された茶を啜り、みかんの皮をむいて一房口にしてから、あれを一冊見せてくれよというと「嫌だね」と返された。
「なんでだよ。僕の本くらい置いてあってもいいだろうよ」というと、「いや、それはあるよ」と、彼が一番下段の棚から一冊引き抜き、僕に手渡した。

覚えのない本だった。知らない出来事を、詩に詠んだもののように見えた。
「こんなもの、僕は出したか? 」とたずねると、「出すね」と返され、さっき飲んだ分以上の茶が湯呑みに注がれた。「本を閉じれば、ないことになるが」
友人店主の声は、ストーブの火を見ることのように、暖かく揺れて響くように感じたが、「何を訳わからん」と、僕の口は、さしたる考えもないままそう言ってしまった。

僕は僕が出すという本をたいして見もせず突き返した。
店主が「これで、この本の正面もわからなくなる」などと言いながら、本は背表紙の見えない形で棚に戻され、僕は茶を啜りながら、その様子を見守った。

実のところ、僕は本など一冊も出していなかった。
(詩集だと? 何を馬鹿な)
店のドアから見える駅前ロータリーの状況は一層悪く、駅構内から流れ出てくるアナウンスが、運転再開の見込みなしと告げ始めた。
僕と店主は交互に茶を啜り、そしてみかんを食べて、ストーブの火を眺めた。店主が「残るのは、過ぎたあとで見えるものだけ」と呟く声を聞いた。