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夏を走る(動画版)

初出:2013.6.17 / webマガジン『アパートメント』(※別名義にて発表)

備考:10年前の短編(AIによる補助は無し)です。当時すでに死語となりつつあった言葉「座高」が使われていますが、その後正式に、概念としても失われた言葉リスト入りしました。旧作につき、“供養”ということでお願いします。

※以下にテキストを掲載しますが、動画と違う部分がある可能性があります。


『夏を走る』


 自転車のペダル、漕ぎに漕いでる。
 あっつい。ゆるい上り坂、長い。
 進んでも 進んでも いつまでも 今日だし。
 今日が直射日光でずっと 当たってる。影は、
 アスファルトの上を 滑って。ああ もう
 汗が切れない。

 並んで走ってる あいつの影は余裕の走行で むかつくわ。
 わたしの影だけ、おもちゃみたいに 上下動
 して、しかも立ち漕ぎ。
 この違い、
 ああ、チャリか。チャリのせいか。
「身長だな」
 うるせ。むかつくわ、あいつ。座高たかいくせに。
 河川敷に出たら 置き去りにしてやる。
 ペダルに全体重。ペダルに全体重。
 影は 定位置で回転と上下動。流れるアスファルト
 の上を、空転する汽車の車輪。
 表面を薄情なほどに滑る、日時計の針。今日は毎日。毎日今日だから、
 出来事で焦げる。
 ああ もう、汗が切れない。

 ゆるい坂を上り切って曲がり、
 河川敷までの 直線道路へ入る。
 加速する風景の流れ。
 錆びたバス停の標識。
 シャッターの閉まった本屋。
 バラ線の張られた空き地。
 あいだに見える鉄塔の尖端。
 交差した飛行機雲の高度。
 ここで思い出になるものは、決して その場へは落ちないんだ。

 川を目前にした交差点の赤信号で止まり、
 振り返って あいつを見たら、胸ポケットから
 取り出したシャボン玉吹きはじめ───
 なにそれ。いつそれ。
「昨日買った」
 って、なんだよ、貸せよ。ちょっと、無視かよ。
 すーっと吹き出される小さめのシャボン玉たち、
 風にのって 横断歩道を渡っていく。

 青信号、ダッシュ。
 慌てた声は 背中で聞いて ───見たか、
 勝負師の 本領とかそういうの発揮。

 走る。走る。これが
 思い出になったって、それは場所へは残らない。
 個々に持ち歩いていく 思い出は、
 摘んだ花の 朽ちていく綺麗さ なんだろうけど。
 河川敷のサイクリング・ロードへ入る小道で、
 かんぺきに 先を取った。
 背中のほうで聞こえる「ちょっと待てよ」の声には、
 待つか馬鹿め、と呼びかける。
 ペダルを踏んで、ペダルを踏んで、先行くもんね と
 呼び寄せて行く。

 一気に広がった川面に、陽の光が入る。
 水面を震わせて来る、風が見える。
 川を渡ってきた風で、
 急に 汗が引きそうになる。

 ふとした不安を、ぐっと 加速に加えた。
 汗は切らない。汗を切らない。
 日焼けしない影が、うしろへ置いていく地面の、上を滑って、
 わたしにぴったりとつく。いまは、
 行く夏を 走っていける。
 いまだけ、
 行ってしまう夏に いられる。

───夏を走る