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きれはし

 日めくりの、めくり終えた日付のほう。

 白い紙切れのようにもみえる 鳥が一羽、
 防波堤に並ぶテトラポッドの茂みに おりてきた。
 港の外に、群れでもいるのかと
 目を凝らしてみたのだけれど、この夏は まばたきまで白くなって眩しい。
 光を吸うように、おおきく深呼吸しながら、体を伸ばす。

 重なって見えるよう、防波堤の高さに上げた両腕を水平に広げ、まあるく囲むようにしてみる。
 長い腕のなかには、海。抱えた港が、ひとりぶん ある。
 ちいさな港に聞こえる波の音は、砂浜を遡る ざざあんではなく、巨大な風呂桶の中でゆれる とぷん音が近い。
 港湾をかたち作るコンクリートの 伸ばした腕に似る湾曲は、
 ぬるい風を 大きくかかえ、
 高さでいえば、腹部よりもすこし上のあたりで、たっぷり、
 波打つ海水のゆれる その重さを抱いたまま 持ち堪え じっとしている。

 腕を回してつくった港湾の中に 船の航跡はなく、白い波頭も立たない。
「今年初めての猛暑日です」と、ラジオから流れる声がある。
 途端、白い紙が数枚 防波堤のあちら側で舞ってすぐ、わっと 散って、ここからは見えなくなった。それは
 鳥たちが、何かの拍子にテトラポッドを離れ、
 予想外の気流に巻かれたか、それとも 目標物が急に変更されたか で、
 コンクリート製の腕からこぼれ、みえないところへいったものだ。

 誰もいない港だった。
「すでに満席である」と、音声だけのアナウンサーが伝えていた。
 何が満席なのか 聞き逃したので、注意深く耳を傾けていたのだが、
「それでは次のニュース」と言ったきり、ラジオの音が止まってしまった。
 白い切れ端が一枚落ちてきて、もわっとした熱風に乗り、
 コンクリートの地面の上を 平らかに滑ってそのまま、みえなくなった。

 過去にしか待ち合わせがないのだ。買い物に出た姉も戻らない。
 きっと自販機も商店も見つからないのだろう。
 隣の漁港までは、あの岸壁の岩肌を伝っていかなくてはならない。
 夏の日差しは、まっすぐに落ちてきて、人の影までからりと灼くほどだった。
 着ている服は、白く発火した瞬間の色をとどめている。
 あまりに 偽りのない白だから、
 この空気や 時間の流れる模様まで、墨流しのように写し取って 着られそうだった。

 この先で 出来事と待ち合わせていない。
 ということは、
 ここは 日めくりの、めくり終えた ほうなのだ。

 乾いた蝉の声に 耳を預け 頭の中身だけ立てかけるようにしてみた。
 空気中に放たれた声は、ジージーと幾何学的に鳴き、肌へ うっすらと 赤い網目状の腫れが広がっていくのが見てわかる。 

 港を抱えていたのだっけ。そう思って、今度は浮かぶように 足を広げて伸ばし、この場の浮力へ身を預けるようにした。
 胸を上に向ける。
 白い服が 空の色を映し取って、徐々に液化していくのをみている。
 水を着た 仰向けのわたしは、水面から つま先だけ、ちょんと出してみる。
 私の本島から 少し離れたその、島とも呼べぬ先端から、白い紙切れが ぱっと舞い上がり、ミニュチュアの鳥のように舞う。
 紙の鳥は一度 水面をつついたあと、上昇気流を見つけたらしく、粒になるまで 高くなっていった。

 わたしという輪郭のそばでは、小さな波が立っていて、くすぐったい。
 皮膚の表面に接続された波打ち際を、くすぐるように上下しながら、伝わってくるものがある。
 遠い つま先の島や、水に揺蕩う髪の根もとにも、まんべんなく、ささやくように打ち寄せている。
 海溝や氷山とさえ 連結している。

「おおい。おおい」と、どこからか声がした。
 胸の辺りをみると、白い月が、空を映した水面にぽっかり浮かんでいる。
「おおい。おおい」と、なおも 顔がみえない声がこちらを呼んでいる。
 なのに、わたしは港湾の真ん中になっているから、徐々に目を閉じていってしまう。

 少しずつ、この島は沈んでいくだろう。
 湾には 鼻先を山頂にした、目を瞑るわたしの顔が最後に残る。
 顔一つを 水面に、お面のように浮かべている。

 辺りは夏に灼かれているけれど、わたしだけ、冷え冷えとして夏にはなれない。
 そこへは行けない。
 ゆらゆら 日めくりの、めくり終えた日付のほうに ちぎれている。