初出:2013.6月 / webサイト(※別名義にて発表)
備考:10年前の短編(AIによる補助は無し)です。簡単なテキストアニメーションにしておいたことで、ファイルが行方不明にならずに残っていましたので、アーカイブとして収載しています。
※以下にテキストを掲載しますが、動画と違う部分がある可能性があります。
『月の彼女』
彼女は僕から見えているのに、触れることができないので、
今夜も寂しさが一層美しい。
君に海があり、裏がある。
満ちた瞳と、顔の陰りを見せる。
月の彼女。───それは、
寄る辺ない空間にあって、名をつけられた天体だった。
ところで、
僕はもう、何者にも なれないらしいよ。
ただ、こうして、冷たい珈琲に浮かぶ透明氷の
わずかに溶けていく大きさで、夜を泳いでいく。
でも、まだ会えるさ。そう言って、
僕は 月の彼女と 個人的な約束をした。今夜
誰でも、彼女と寝てもらえるし、
誰もが同時に、彼女と眠りながら、
誰ひとり 彼女と重なれはしない。
───月の彼女。
その表情はいつも、光の速さで、一秒ちょっと前のものだった。
ずっとずっと、すべての人が、
ここより 少し前の 彼女で眠った。
お風呂のちいさな窓のところに、引っ掛けるようにして 鉢植えを置いた。
それは 月の彼女からも見える。
可愛い葉を伸ばす その名を、僕はよく知らないから、
彼女が名付ければいいと思う。
ちいさな窓は 開けたままで待つ ───約束の一番最初になる。
彼女は月面の、静止画像みたいな顔色で、
ぎちっと親指を握り込んで そばにいた。僕は 手首ごと握って
まっすぐ湯船に引き入れる。
湯船から出ている冷たい肩に、手桶でお湯をかけてあげながら、
消えない足あとのことをみつけ、
かつて 月だったものの話をしよう。
開けていた窓から、手紙を綴るように出来事を伸ばし、
その空間を折りたたんで、感情線をつける。
もう、このまま何者にもなれないよ。
ましろなシーツに包まる君。
君自身の発する光じゃなくとも、
しろく あかるく それ そのものの、静かな君が───、
あゝ、なのに わずか少し前の顔をして そこにいた。
なぜ、どうして、いま別の時にいるのだろう。
冷えた夜をなみなみ注いだ、僕の部屋と
一秒前の君とのあいだで、鈴虫が鳴き、
足を取るように、下の方から 秋が来ている。
───月の彼女