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近しきはひとりと

 白い一本の線だけで描かれた物語が、そこにありました。
 それは下町の、軒がひしめく中にある、人気のない公園へ下りていく、わずか七段しかない階段に、誰かがチョークで描いた落書きでした。

 彼が階段を下りかけて、一度、段を戻ったのは、落書きの絵が、一段一段続くような、物語であることに気付いたからでした。

 三段目の魚に翼が生えた理由は、手前の四段目にありました。
 二段目の、おそらくは蜜柑の実を描きすぎたせいで、最後の一段ではチョークの線がかすれ、何かの輪をつくる途中で線が途切れていました。

 公園にはブランコがひとつと、ベンチが二つありました。
 ブランコは特に明るく照らされていて、そこだけお椀の底のような日溜まりです。
 ブランコに腰掛けた彼女は、目を合わせることなく彼に話し始め、その言葉と言葉の間には、くたびれて腰掛けるように鳴る、町工場のプレス機の音が、規則的に挟まれました。

 空には、雲でできた巨大な肋骨が並んでいて、そこを、ジェット機の機影が、針か棘のように行くのが見えました。
「いいよ」
 どこにつながるかわからない、彼の言葉のあとを埋めたのは、彼女の声ではなく、くたびれて腰をおろすような音を立てる、町工場のプレス機だけでした。

 明確な理由のあるものが切なさだとすれば彼女で、足りない未来が切なさだとすれば彼でした。
 ひとりだということが、二人になるための、近く親しき前提だというのに、───そう、口にしたい気持ちを二人が抑えているあいだ、空を行く機影の棘は、何にも刺さることなく進んでいきました。

 機影の棘は、無音のまま肋骨雲の空を行き、どこにも刺さりはしないけれど、止まることもありません。地上に降ってくるエンジンの音は、時差を持って大きくなりました。

 彼女は立ち上がり、二人は初めて向き合いました。
 ちいさな挨拶のあと、
「時間の残高、思い出と交換だけど、レートはきっと違うんだよね」
 そう、彼女のほうが言いました。

 空の、白く巨大な肋骨は、傾きをつけ始めた太陽に照らされて光り、刺さりはしないまま抜けていく機影の棘が、見えなくなるまで遠くなります。
 風がなく、ひどく穏やかで、公園の木は色づいた葉を目一杯溜めたまま、でも、まだ一枚だって落とそうとはせずにいて。

 彼女は立ち上がると、七段あるちいさな階段を上り、白いチョークの物語を、さかのぼって行きました。
 ブランコに腰掛けた彼は、町工場のプレス機の、くたびれて腰をおろすように鳴る稼働音が、規則的に続いているのを聞き続けました。