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三十五秒

 真夜中のキッチンに立つ。

 鍋に 有り合わせの野菜
 加えてソーセージと、月桂樹の葉。
 小さなじゃがいもの皮はきれいに洗って、そのまま入れる。

 換気扇を回し、火にかけたところで、
 いつも電話が鳴る。

 電話は一回だけ音を鳴らす。
 必ず 出る前に止んでしまい、
 残されたキッチンに 無音だけが残る。
 しばらく 何も聞こえなくって
 音はなくなって いて

 そこから、換気扇の回る音が戻るまで しずかに数えて待つと、
 いつも 三十五秒あった。

 三十五秒で、
 人は 長い夢を見る。

 暗い夜の港湾。ぽつりと灯る街灯、
 ベンチひとつしかない 停留所。
 待ち合わせたバスがやってきて、二人 空港へ向かう。
 曇った車窓に、文字を書きかけ
 すこし恥ずかしくなって 袖で拭いて消す。

 暗い夜
 上空で 音のしない雷光が 横に走っている。

 空港に到着し バスを降りる。
 フライト時刻の迫る チェックイン・カウンター。
 そのときになって、
 わたしは 私の名前を持たないことに気がつく。

 わたしという役者が 一人立ち尽くし
 繰り返す「名前、名前、私の名前」と。

 預け荷物と共に搭乗した恋人は 機上の人となって行く。
 わたしを演じる役者は、名前を求め
 乗ってきた 周回バスに戻って、座り───。

 三十五秒。
 キッチンに 換気扇の回っている音が戻っている。
 目の前に コトコト音を立てる鍋もある。
 勝手口の外からは、寝息のような強弱で
 虫の声まで聞こえてくる。