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夜と額縁

酔って通りへ出ると、悪くない月が出ていた。
店舗どころか、街灯さえ店じまいのようで、月明かりだけが冴えていた。

通りを行く間、誰ともすれ違わなかった。
誰とも顔を合わせず、だから誰とも言葉を交わさず。券売機も信号機も役目を終えて他人ヅラ。
でも、悪くない月夜なのだ。

大通りを左に折れて、巨人が眠る棺桶みたいに四角い、銀行の建物の袖をショートカットしていく。
どこへ出ても歩道が広く、しかし誰とも会うことがない。
誰ともすれ違わないし、つまり言葉を交わすようなことがない。
ただ悪くない月夜に、悪くない明るさの道を行った。

道の前方、反対車線側に、四角いシルエットが現れて、こちらへ斜めに横断して来るのが見えた。
月夜に照らされたそいつは、角ばった両肩を交互に動かし、ギィギィ音を立てて歩いてくるのだが、よく見れば、背丈ほどある立派な額縁だった。

生きているかのように、道を渡り、大層ご立派な歩幅でやってくる。
ぼくは、月明かりのなか、大きな拍手で迎えてやった。

絵は、海辺を描いたものらしかった。月夜の中でもそれは見えたし、絵の中で波頭は白く際立ってみえた。

絵と、ぼくは、近くなって、向かい合った。
相手の言語がわからない。
わからないからといって、無言というわけにもいかぬので、僕の方から声をかけた。
「やあ、いい月夜だね。散歩かね」

ギィギィと、木製のオールを漕ぐように軋む音を立てながら、額縁が無遠慮に一歩、一歩と、近くにじり寄ってきた。
中の絵が近づくにつれ、体内に描かれた海の波は揺れを大きくしているように見えたが、とうとうぼくの目の前でその勢いを殺せず、大きな波になって道に溢れ出た。
バスタブから溢れるような音を立て、絵の中の海は夜道に溢れ出し、足もとを黒く濡らした。

目の前に、額縁だけポツンと残された。
飾ってきた海をなくしてしまい、立派な木枠だけで、ぽつんと道に残っていた。

それでぼくは不憫に思い、その木枠を腕にかけて持ち上げ、家路についた。
靴が波でびしょ濡れだったから、踏み出すたびに、ひどい音がして、あとには黒く濡れた足跡が残った。
そうして空っぽの木枠を腕に下げたぼくは、悪くなかった月夜をあとにし、ひとり、家まで帰ったのだ。